山のかなたの空とおく 小鳥が一羽なきました

5年前に家を出て ここまでやってきたけれど
ここは一体どこなのか さっぱり見当つきませぬ
お日様追っかけしたけれど お日様どんどん移動して
月の姿を追ったけど 月はどんどん形変え
どこまで行っても空ばかり どこまで行っても雲ばかり
5年前とは言ったけど ほんとは今がいつなのか
おうちに帰りたいけれど おうちがどこかもわかりゃせぬ
わたしゃいったいナニ求め 目標定めて飛んだのか
この世に目標なるものは 存在しないものなのか?
この世に絶対なるものは 存在しないものなのか?
生きてる理由のないワタシ 存在しないものなのか?
今では自分が何かさえ わからぬこともわからなく・・・

飛ぶこと疲れて地上へと 今から行こうと思います

降りて小鳥が見たものは 自分のおうちでありました
お日様追いかけ月追って ぐるっと一周ひとり旅
水に映るはお日様と 夜空に輝く月と星
追っかけつづけた目標は こんなところにあったのか

そして小鳥はなきました 
まいにちまいにち、なきました

旅をしていたそのあいだ 仲間の鳥はいづこやら
小鳥の知ってる仲間鳥 今の小鳥に気がつかぬ
小鳥の幸せどこなのか 記憶の中か現実か

晴れた日の 道路の上の鳥の屍骸 ゆめかうつつかまぼろしか

+++++++++++++++++++++++

これは、長歌というものだったかどうか?
5757・・・を繰り返して、最後77で終わるんよなぁ・・・?
なんかようわかりまへん。
ポエムじゃポエム。うが。((´д`))
びみょー。 ( ̄ii ̄)
また、青い鳥の話はいつか書くべや。

毎朝山に向かって車走らせてたら
なんか知らんけど「山のかなたの・・・」って浮かぶんよね。
きっと、海潮音@上田敏ってとこかぁ?
秋の日のビオロンの身にしみてひたぶるにうらかなし
ふむ。
もう一個、「山の神様がくれた水、天然水」も浮かぶけど。
CMおそるべし。

こないだ猫が轢かれて道路に屍がぁ!!
って思っとったとこやのに
今日は、キツネかい!!
去年は鳩の屍を3回も見たし。
おまけの今日のタイトル解説。
たしかに、某パタリロの音頭ですが
本家はマザーグースですから、たまきゅん。
「誰が駒鳥を殺したの?」ってやつです。
たまきゅんなら知ってるか。
いやね、こないだ、わかめちゃんは知らなかったからさ。

マザーグースってすごいわ。
ハンプティダンプティって怖いよな。
そのうち、いろいろ本読んでみようっと。

********

以下リハビリ。

期待をするということ。

期待をするということは、ある事柄に対して自分の願望を照らし合わせることに基づく。
そしてそれは、まだその願望が達成されていないために起こり、同時に自分の願望が達成されないのではないかという不安や焦りを含んでいる状態であるといえるのではないだろうか。

期待は物事への執着が深いほど大きい。
また、自分の願望が達成されない可能性が大きいほど期待は深まるのではないかと思う。
なぜならば、期待をするということは、自分の願望が達成されないからこそ期待するのであり
最初から自分の願望が叶うと考え、行動しているのならば
その時はもはや、自分の願望が叶うという「期待」よりも
叶わない場合もあるかもしれないという「可能性」を考える程度にとどめられると思われるからだ。
そして、過去に自分の願望が達成された経験を携えているからこそ、「ひょっとすると」自分の願望が叶うのではないだろうかという思いが表出され「期待」をすることになる。

例えば、別れた人から電話がかかってくるかもしれないという期待は
まずはじめに「電話はかかってこない」という前提から始まる。
ところが、かかってこないと考えながらも、以前「かかってきた」という事実が存在する。
その時に感じた思いが、自分にとって「快」であったため
それ以降も同じ事が起こることを願ってしまうのだ。
だが、別れた人から電話がかかってくるということは、偶然の出来事であり、稀なことである。
その事実を事実として受け止め、頭の中で理解しているために
「ひょっとしたら」という期待が出てくるのであろう。

過去に起こった、たった数回の「快」の記憶は
その背景に存在する何千回何万回の「快以外」の感情を伴った記憶にも勝るのである。
そのため、人は毎晩のようにかかるはずもない電話が「ひょっとしたらかかってくるかも」と期待をし
かかってこないことに悲しみ、同じことを反復してしまうのだと私は考える。

しかし、期待をしつづけていた「快」の記憶を駆逐するほどの「快」を現実で伴うことができれば
そのとき、「期待」はただの過去としての記憶にとどまり
願望が叶わなかった不安や焦りを感じることがなくなる。
そして、「期待」をしなくなるだろうと考える。

一方、期待をするということを全く喪失してしまうことは
人として、ある種問題でもあるだろう。
人はなんらかの夢を描いて、夢に向かって生きていく動物である。
また、それを実行する能力も携えている。
それは、人だけに与えられた能力でもある。
アウシュビッツに収容された人々で最後まで生き残っていたのは
「生き残る」という目標と期待と希望を最後まで捨てずに持ち続けた人たちだと言う。
いつか実現するだろうという期待を抱くことが前進するバネとなり希望となる。
これは、人が人として生きていく上で重要な部分を占めていると言えよう。
この期待をするという能力があるからこそ、自己実現に向けて自己を成長させ
毎日を過ごしていくことができるのであろう。

「この宝くじは当たるかも」というようなリスクを伴わない「期待」は良いが
かかってくるあてもない電話を期待して、毎晩哀しみと涙に明け暮れるような
辛い思いのほうが大きい「期待」はしない方がよいのかもしれない。
それは期待と言うよりもむしろ「呪縛」であるような気さえする。

呪縛から解き放たれて期待をすることをやめ、現実世界に目を向けて
過去の「快」以上の「快」を手に入れるために
きっちりと過去は過去として捉えて
今日からはちゃんと携帯の電源を切って寝ることにしようと思う。


↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑


筋とおってないねぇ。
何言いたいんか、結局わからん。
接続詞がぁ。あかん、「しかし」と「だが」を多用してしまう。
まぁ、こんなん読む人おらんやろうからえっか。

んじゃ、今日もお疲れさん。
ヽ( ´ー`)ノ セノビ〜

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